所長の公認心理師・臨床心理士としての歩み③:一時保護所時代

いつもこころとからだのカウンセリングルーム和(なごみ)に関心を向けていただいてありがとうございます。
今回は、私が公務員として働いていた3年目に人事異動に伴い赴任することになった一時保護所での経験についてお話させていただこうかと思います。

本来ならば、児童相談所の2年目を書く「所長の公認心理師・臨床心理士としての歩み②」を書こうと思っていたのですが、先々月、私が一時保護所で大変お世話になった方がひっそりと逝去されていることが分かりました。そのことがきっかけで、その時のことをよく思い出し、書きたいことが出てきたので、この場を借りて、振り返らせていただきます。

児童相談所での多忙な2年が過ぎ、その時期は、現場で成長した自分を感じつつ、一方で、どんなに実力をあげたつもりで関わってもうまく対応できないケースも経験しました。
充実感とともに無力感も感じましたし、残業も多く、帰宅も遅かったので、どこか自分をすり減らして仕事をしていた感覚もありました。

一時保護所への異動は、もう少し児童相談所にて仕事をしたかった…という後悔も大きく、
一方で、学生時代に一時保護所に非常勤職員として勤務していたこともあり、改めて常勤職員として勤務するとしたらどうなるのだろう…
と後悔や不安、期待のいりまじったスタートでした。

ちなみに、児童相談所は、心理司、ケースワーカー、保健師、保育士、行政職の事務職員等さまざな多職種の方が勤務されています。一時保護所は職員の人数も多く、心理職は私1人だったのですが、保育士、ケースワーカー、看護師、調理師、警備員等、さらに色々な職種がおられて、おそらく初めて心理職として1人という「アウェー」な職場ということも貴重な体験だったと思います。

また、私が心理士であることは子どもには伝えておらず、子どもにとっては一緒に寝食をともにする指導員の一人でした。「いったん心理職という役割を外してみる」ということも非常に貴重な体験だったように思われます。

さて、一時保護所の説明をもう少ししますが、一時保護所は、何らかの事情で家にいることができなくなった養護家庭の子ども(お金がなくて余裕がない、急に保護者がいなくなって面倒を見る人がいない)や様々な虐待で家から保護する必要があると判断された子ども、非行行為によって地域からいったん離れる必要のある子ども等、様々な理由で一時保護をする施設です。子どもたちは朝起きて、ご飯を食べて、勉強したり、遊んだりして一日を過ごします。

私は朝9:00から勤務して、子どもと遊んだり、時に勉強を教えたり、ギターを弾いて歌ったり、揉める子どもたちの仲裁に入ったり…時にはハッキリと怒ったり…
一緒にご飯を食べて話をしたり、お風呂の見守りをしたり、子どもたちを寝かしつけたり…そんな今までとは違う「生活に入り込んだ支援」をしていました。
1週間に1回くらいは夜勤がありました。20代だったので、体力的にはなんとか…と思いつつも、なかなか慌ただしい職場で大変でもありました。

でも、「心理職であることを捨てないといけないのか?」「いや、違う…。心理職のまなざしをしながら、指導職員をすれば良いのだ」と思うようになり、
「指導員的心理職」という言葉を自分のキーワードに、子どもと毎日向き合っていたと思います。

その時に、とても感じたことは、人とつながること、仲間(職員)とつながること、子どもとつながること、保護者とつながること、つまり一言で言うと「連携」です。
職員の中には、色々な価値観の人がいて、その人たちとつながってオープンでいることでたくさんの気づきがありました。

ある時は私の子どもとの関わり方についてベテラン保育士さんが、こうしたら良いよって懇切丁寧に教えてくれました。あるときは、ケースワーカーの課長が「高橋さんな、こういう時はこうしたらええねん、子どもはなぁ…」と暖かい雰囲気で分かりやすく、心理学的な用語等いっさい使わずに教えていただきました。その毎日は私にとって本当に充実した毎日でした。

試行錯誤しながら、意図しないことでベテラン職員さんに嫌われたことも一度ありました。でも、話し合いを続け、和解し、お互いを尊重するようになりました。
今思えば、それは小さなハラスメントだったと思います。どう考えても変な理由で嫌われてしまって少し嫌がらせを受けたのですが、運よく「雨降って時固まる感じ」で、その後は謎の距離感を保ちつつ、その先生の良さも見えてきて、尊敬できる部分も見えながら仕事をしていたと思います(そしてその方のペースで私を尊重してくれた気配を感じつつ、仕事をしていました。)。

その職場は20代の職員と50代くらいのベテラン職員が多い職場だったのですが、しばらくたつと多くのベテラン職員さんも私を慕ってくれるようになり、
「高橋さん、子どもの発達年齢ってどういう意味?」
「心理的にはどう考えたらよいの?」
「この子にはどう対応したら良いの?」
と心理的な話の相談を持ち掛けてくれて、私は心理の世界の分かりにくい専門用語を、ある意味では翻訳機のように、分かりやすくかみ砕いて説明しました。これはとても鍛えられた経験でしたし、とても充実した時間でした。
(後にこの経験は、保護者へのフィードバックをどうしたら良いかという経験にしっかりとつながって私の大きな糧になったことに気づくことになります。また、夜勤も含めた生活に入りこむ直接支援の経験は、相談機関のような心理テストやカウンセリング等の間接支援では学べない視点が広がり、心理テストという非日常空間と生活という日常空間を私の中で強固に結び付け、保護者に役立つ実りある助言ができるようになり始めたのもこの頃です。)

そんな日々の実践が、私を色々な価値観を持つ職種の皆さんとしっかりと結び付け、「つながり」をしっかり持ち、「強固な連携」をすることを可能にしていったように改めて思えます。
そして、自分が色々な価値観に開かれていて、オープンであることにより、心理以外の専門家である保育士やケースワーカーさんから、思いつきもしない支援方法を教えてもらい、
育ててもらって、自分の専門性や自信、能力を高めていくことになるのだと20代のうちに深く実感できたのは、大きな財産です。

そして、今、カウンセリングルームを主宰し、所長として活動する私がいます。
改めて、連携、「つながること」を意識すると、本当に難しいことだなぁと思います。

相手がどんな人かわからない、相手がどんな機関かもわからない、いつでもスタートはここにあります。
ここでは割愛しますが、連携することの大きなデメリットもあります。

それでも、私一人で頑張っても、この世界は苦しみに満ちていて、その苦悩を乗り越えるためのエネルギーを相談者さんの中にはっきりと見出しにくいことがしばしばあります。
多くの場合、相談者さんの悩んでいること、困っていることの奥底に、まだ気づかれていない、これから大きくなりそうな希望とか、伸びしろとか、ポジティブな光のようなものがあるのは間違いないと思ってカウンセリングをしています。

「一人ではできないこともある」

この当たり前のことを、ありのままに受け止め、自分の限界を認めているから、私は必要に応じて関係機関と連携したり、色々な資源を考えたり、「つながること」を意識するのだと思います。難しいと分かっていても、そこにチャレンジすることは、私がよりよく生きるためにも必要な気がします。

そう考えてみると実に一時保護所で良い経験をしました。実に優秀な先輩職員たちに育てられました。その意味で、私は恵まれた幸せな人間なのだとも心から思っています。

一時保護所で、私を育ててくれた先輩職員や若手の同期職員に心から感謝します。
そして、同じ釜の飯を食いながら、日々一緒に遊んだり、指導場面で時には言い合いになったり、すったもんだしながら私を育ててくれた、子どもたちにも心から感謝しています。


本当にありがとう。

今思えば、後悔する関わりもありましたが、それはそっと胸にしまっておいて、今後の私の支援に役立てたいと思います。

最後になりましたが、2023年8月に、敬愛する私の上司 元一時保護所課長の油谷 豊さんがご病気で亡くなられました。
油谷さんは紛れもなく私の人生において、子どもとの関わり方について、懇切丁寧に指導してくれた私の実質的なスーパーヴァイザーでした。
まだまだ教えてほしいことがありましたし、もっとお話ししたかったので、とても悔やまれますですが、時に「油谷さんだったらこういう時はこうするかもしれないなぁ…」と
油谷さんの気配を感じながら、「つながること」を意識し、日々の業務にあたりたいと思います。

高橋 暁彦